Survey or Interview宮澤 正顯
誤りや非を正し、新しい規則や
より正しい真実を見つける努力を
By correcting errors and faults— we strive to uncover new principles and deeper truths.


宮澤 正顯
MIYAZAWA Masaaki
名誉教授
Professor Emeritus
-
近畿大学医学部およびその他のキャリアにおけるご経歴の中で、特に意義深かった役職・活動について教えてください。
医学部でも大学本部でも多くの役職を拝命し、日本学術振興会や大学基準協会等でも複数の公的役割を果たして来ました。 私の着任時、医学部では丁度学内LANが設置されるところでした。前任の三重大学には病院医療情報管理部があり、着任早々アカウントが与えられて、事務連絡など全て電子メールで届いていましたから、近畿大学はかなり遅れていました。大学の方針は、サーバやLAN回線は設置するので管理は自分たちで行えというもので、病院電算機室の喜多課長(当時)などと協力して「インターネット利用者協議会」を作り、自主管理を始めました。しかし、ボランティア管理の限界はすぐに明らかになり、法人本部と何度も折衝して常勤職員のいる医療応報室の設置に漕ぎ着けました。文科省のIT化予算等も獲得して狭山キャンパスに光ファイバー回線を導入、CBT実施に先駆けて学生一人に1台の端末があるIT教育室を作ったのもこの活動の成果です。 着任前から「箱だけ」あった遺伝子組換え実験室を整備し、動物飼育も可能なP3実験室として稼働させたのも私です。全学の遺伝子組換え実験安全主任者を長く務めましたが、その間にカルタヘナ法が施行され、何度も文科省の説明会に出席して、学内規程や細則、申請書類の改訂に取組みました。この活動を通じて本部総務部の方々と親しくなり、文科省の実地調査など幾つかの難局を協力して乗り切ったのも良い思い出になっています。 -
病理学・免疫学・ウイルス学の研究において、先生が一貫して大切にしてきた理念や科学観についてお聞かせください。
東北大学における私の恩師である故・京極方久先生は広い人脈を持ち、当時の基礎医学研究における指導的な立場の先生方を非常勤講師として講義に招かれ、また自らが班長を務める厚労省研究班のメンバーに迎えられていました。私は学生時代から京極先生の教室で研究をさせて頂いていましたので、班会議や小規模な研究会、その後の懇親会などを通じてそれら先生方の謦咳に直接触れる機会があり、特に若くして三重大学の病理学教授から愛知県がんセンターに転じられ、当時研究所長だった西塚泰章先生(Cキナーゼの発見者西塚泰美先生の実兄)には目を掛けて頂きました。西塚先生は発がんにおける上皮‐間葉系相互作用研究や、長期観察による宿主因子解析の先駆者ですが、当時盛んだった遺伝子導入による試験管内発がん実験に批判的で、ウイルス発がん感受性と抵抗性の系統の遺伝的解析から、発がんを制御する宿主遺伝子の実体と作用機構を解明しようとする私の研究を高く評価して下さいました。結果をどのようにでも操作可能な細胞レベルの研究ではなく、個体レベルで高い再現性をもって観察された現象を基盤にその分子メカニズムを明らかにするという私の研究姿勢は、こうして育まれたと思います。 -
「ヒトの中にウイルス遺伝子が眠る」という発見は、科学的にも社会的にも大きな意味を持ちました。この研究を通じて特に得た知見や社会への示唆について教えてください。
ヒトを含む哺乳動物の染色体に、生れつき祖先から引き継いだウイルス遺伝子が眠っていることは、私が研究者になる以前から知られ始めていました。私が学生時代から興味を持っていたのは、そのように自分自身の構成成分となっている筈の「内在性ウイルス」に対して、免疫系は「自己寛容」になっている筈なのに、どうして外から感染して来るウイルスに対して免疫反応で対抗できるのかということでした。この疑問に答えるためには、免疫細胞がウイルスの持つどのような構造を「非自己」と認識しているのかを分子レベルで解明する必要があると考え、それを明らかにしたのが私の前半生だったと言って良いでしょう。結果として、免疫系は染色体上の内在性ウイルスの構造と、外から襲ってくるウイルスの構造を、僅か数個のアミノ酸配列の違いで見分けていたのです。こうした知識は、ワクチン開発に必須です。 一方、染色体に取り込まれたウイルス遺伝子が、同じ仲間のウイルスの細胞内での複製を防ぐ遺伝子の発現を制御しているという発見もしました。この仕事は、哺乳動物の進化の過程で祖先がどこでウイルス遺伝子を取り込み、どこで感染に曝されたかという、時間と空間両方を取り入れた解析が必要で、ロマンある研究となりました。もう私自身は取組めませんが、人類の進化解明にも同じ視点が関わる筈です。 -
研究成果を医療や社会に活かしていくプロセスで、トランスレーショナルリサーチとして工夫したこと、乗り越えてきた課題があれば教えてください。
医学部の学生時代から病理学教室で研究を始めた私は、卒業と同時に病理医として剖検や生検診断に従事するようになりました。東北大学では医学部の二つの病理学教室と歯学部の病理学教室、それに抗酸菌病研究所(現・加齢医学研究所)病理学部門の教員や大学院学生が病院病理部に集結し、年中無休で24時間剖検を受け付け、若手と指導医が教室の垣根を超え、向かい合って診断を下す体制が出来ていました。当時は年間500件を超える剖検があり、私は最初の年だけで30件以上の病理解剖に従事しました。いわゆる「写真記憶」を持つ私は、学生時代に通読したアトラスの画像を憶えており、稀な病変に一瞬で診断名をつけるので他教室の先輩を驚かせたこともありますが、生検診断は剖検と違って科学的推論ではなく、先人のつけた診断名を目の前の標本に当て嵌めるだけの作業であることに、研究とのギャップを感じていました。「宮澤はマウスの研究者だ」と揶揄され、恩師からも「君の仕事は早くヒトに適用しなさい」と言われ続けました。しかし、後にHIV感染者で大々的に行われた免疫応答遺伝子の解析は、実は私がマウスで行った研究の焼き直しでしたし、ペプチドワクチンの研究は、今まさにがん治療に展開されようとしています。この歳になって臨床家との共著論文が次々と世に出るのは、目前の流行を追わず本質的に重要な課題に取組んできた成果だと思います。 -
近畿大学医学部での教育活動・学内運営(研究科長、遺伝子組換え実験安全主任者など)において、特に重視して取り組まれた教育理念や組織運営の方針がありましたら教えてください。
炎症性疾患研究の大家であった私の恩師がいつも言っていたのは、「病変は状態ではなくプロセスである」ということでした。そこには、病変のある一瞬を捉えて決定的な診断を下そうとする、病理医の業務に対する自戒が込められていたと思います。実際、京極先生は目の前の標本だけで診断を下そうとはせず、必要に応じて主治医に電話までかけ、患者の既往歴や発症経過、生検時の病勢、治療の有無や反応を聞き出していました。また、恩師も私も剖検例の解析が大好きで、全身の標本を隈なく観察しては、発症から死亡に至る病態進行を矛盾なく読み解こうと努めました。 学生教育に当たって私が常に心掛けていたのは、病気を状態と捉えず、「病態発生のプロセス」を理解してほしいということでした。その点で、テュートリアル制は私の考えの実践に最も適した教育法でした。長年病理医として剖検例の病態解析を行って来た私には、豊富な症例データがありましたし、病理標本もありました。これらを駆使して、毎年新たな事例を作り、自己学習のためのストーリーを練りました。私の事例が他大学からも評価されたのは大変嬉しいことでした。 -
教育者として、若手医師・研究者に伝えてきたメッセージや大切にしてきた価値観は何でしょうか。
大学院医学研究科長として、毎年度の初めに「医学研究のあり方」に関する講義を行って来ましたたが、そこでいつも触れたのは、西塚泰章先生の辞世の言葉ともいうべき、「研究者とは、現在知られ行われていることの誤りや非を正して、新しい規則やより正しい真実を見つけようと努力する人々のことを言うのである」でした。 簡単にデータの出る研究、すぐに論文になる研究ならいくらでもできます。しかし、本当の研究とは、世の中の多くの人たちが「これで良い」と思っていることに対して、「それは間違っている。もっと良いやり方がある。」と言えるようなものであるべきです。そのためには、流行を追った仕事ではなく、一生を賭けたライフワークを展開しなければなりません。私がアメリカ合衆国で薫陶を受けたNIHのBruce Chesebro博士が若い頃に発表した一連の論文は、今でもその結果が再現できますし、それらの論文を基礎に、いまだに世界中の複数の研究グループがその先を展開する研究を続けています。研究とは、そのようなものでなければいけないと思います。 -
近畿大学医学部・附属病院が今後、病理学・免疫学・学際研究の分野で果たすべき役割や挑戦してほしいテーマがありましたらご意見をお聞かせください。
これは、私があれこれ言うべきことではありません。近畿大学を担う次世代の教員・研究者の方々が、自ら考え、「現在知られ行われていることの誤りや非を正して、新しい規則やより正しい真実を見つけようと努力」して下されば良いのです。 実は、私自身がまだ現役の医学研究者であり、日本医療研究開発機構から委託費を受けて、鹿児島で経鼻粘膜ワクチンの研究開発を続けています。その過程で、これまでに知られていなかった多くの事実に気が付き、新しいワクチンの実用化に全力を傾けているところです。その点では、私自身がまだまだ挑戦を続ける立場であり、近畿大学との競争も協調も望むところです。 -
未来を担う若手医師・研究者・学生たちに向けて、先生が伝えたい言葉やメッセージをお願いいたします。
既にここまでの項で述べて来ましたが、医師・医学研究者にとって最も大切なことは、病気をピンポイントで捉えるのではなく、病態形成のプロセスを全体として理解しようとすることです。時間軸を頭に置いて、現在この患者が一連の病態発生プロセスのどの段階にあるのか、これまでの検査データが矛盾なく説明できるか、これからどの方向に向かおうとしているのか、どう介入したら進行が変わるのかを、しっかり考える訓練を重ねて下さい。 -
50周年史に、先生ご自身の歩みや近畿大学医学部との関わりを振り返って、後世に残しておきたい言葉・エピソードがあればご記入ください。
新設されるという免疫学教室の主任教授に応募するため、初めて狭山のキャンパスを訪れるまで、私は近畿大学がどこにあるのかも知りませんでした。三重大学医学部から東名阪道と名阪国道を通り、西名阪道を抜けて大阪平野が目の前に広がった時、遥か彼方まで立ち並ぶビルを見て心が踊り、医学部に辿り着いて建物の美しさと木々の緑に感激したものです。しかし、着任してみると教室の設備は旧態依然としたもので、教授会の雰囲気も自由に意見を述べられるようなものではありませんでした。そんなところに風穴を開けたのは、次々と着任してきた若手教授であり、近畿大学を何とか世界レベルに持ち上げたいという当時の野田学長や本部トップの方々の願いが、我々の努力と上手く呼応したと思います。 潤沢な公的研究費に助けられ、国内外の多くの共同研究者に支えられて、大規模な遺伝子解析や多数の遺伝子改変動物を用いた感染実験が出来ましたが、これからはそういう時代ではないでしょう。急速に変化する人口構成や産業構造、増大する医療費負担、増えない研究開発予算。そのような中で近畿大学と医学部が発展を続けるには、これまで以上に先見の明が必要でしょう。近畿大学にはそれがあると信じています。