HISTORY

すべての国民に大学教育を。
全身全霊を傾けた理想の大学づくり。

「教室がなくて、学生が迎えられるか!」。近畿大学の前身である大阪専門学校の校長に就任した世耕弘一は、戦後すぐに空襲で焼失した校舎の再建に乗り出していた。弘一は、資金繰りに奔走。ただちに9棟もの校舎を完成させたのである。

しかし、戦後の混乱は校舎などに限らなかった。日本の民主化を推進していたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、かつて陸軍士官学校や海軍兵学校など軍関係の学校に在籍した者の受験資格と合格基準を厳しく定め全国に通達し、入学を制限した。弘一はこの通達を無視し、受験生の出身校を問わず合格点に達した者を入学させるよう取り計らい、平等に合格者を出したのである。

かつて、貧しさ故に中学進学の夢を絶たれた弘一。「学びたい者には学ばせたい。前途ある若者の芽を摘んではいけない」という思いが、弘一の志を支えていたのだ。

妥協なく理想を貫いた、近畿大学の第一歩。

大阪専門学校の再建後、弘一は「すべての国民に大学教育を」という理想を掲げ、大学の創設に着手した。その建学理念、教育方針など、大学の憲法と言えるものはすべて弘一が筆をとり、校名も自らが「近畿大学」と命名。また、厳しい自然に耐えて咲く梅の花を大学のシンボルとした。

昭和24年、戦後最大の教育改革、新制大学制度と同時に、弘一は自らの理想を貫いた「近畿大学」を創設し、初代総長に就任する。

弘一にとっても、新しい人生の第一歩と言える入学式で、こう語った。

「諸君、入学できたからといって浮かれている時間はない。今日この時から、就職の準備にとりかかり、卒業後の進路に備えたまえ」。

「学問・実際一如」「魂の啓培」。

建学の精神は、この日から現在まで受け継がれている。

真理の探究にとどまらず、真に社会に役立つ学問を。
創設者の魂に真実を見いだす学舎、それが近畿大学です。

世耕 弘一
世耕 弘一(明治26年生~昭和40年没 和歌山県出身)
大正12年、日本大学を卒業後、朝日新聞社に就職。
ドイツ留学を経て、昭和6年に日本大学教授に就任。
翌年、39歳で衆議院議員に初当選(以後、8回当選)。
昭和24年、近畿大学を創設し、初代総長となる。
昭和34年、第二次岸内閣の国務大臣に就任。
昭和38年に藍綬褒章、40年に勲一等瑞宝章を拝受。
没後、従三位に叙せられる。