HISTORY

混乱する社会への憂慮。
反骨精神を貫いた若き代議士。

神戸港、伏見丸がいよいよマルセイユに向けて出航する時を迎えた。船上の人混みのなか、ドイツ留学の夢をかなえた一人の青年が、大いなる期待を胸にきらめく波間を見据えている…。大正12年、日本大学と朝日新聞との援助を受けて、遙かドイツを目指すこの青年こそ、後に衆議院議員、国務大臣となり、近畿大学を創設した世耕弘一である。

ベルリン大学に籍を置いた弘一は、まずドイツ語を習得し、さらに政治経済について猛烈な勢いで学んでいった。しかしこの時、何よりも心に刻まれたのは第一次世界大戦直後、混乱を極めていたドイツ社会に自らの身を置いたことであった。すさまじいインフレ、飢えに苦しむ国民、目を覆わんばかりの惨状が、弘一の胸を激しく打った。

政治とは何か?政治家とは何か?自問を繰り返す日々が、弘一の進むべき道を示しはじめていた。

国民を飢えさせず、戦争をさけることが、政治家に課せられた使命。

帰国後、日本大学の教授として迎えられた弘一は5年後の昭和7年、自身三度目の衆議院総選挙に挑み、見事に当選。弱冠39歳で代議士となる。ドイツと同様、金融恐慌にあえぐ日本国民を救うべく立ち上がったのである。

弘一が政治家の使命として導いた結論は、何よりもまず国民を飢えさせない、そして飢えの原因となる戦争を避けるという、シンプルなものだった。「一億日本国民をどうやって食わせるかが政治だよ」が、口癖でもあった。しかし、当時の日本は第二次世界大戦の最中。国家の厳しい経済統制下のもと、弘一は反骨精神を持って規制緩和を訴えた。平和こそが真の経済発展に繋がることを、弘一は知っていたのである。

初当選から17年を経て「学問・実際一如」「魂の啓培」を近畿大学建学時の精神とした世耕弘一。社会に貢献する人材を育てる実学志向と、「人に愛される人、信頼される人、尊敬される人を育てる教育理念」は、今もなお近畿大学に受け継がれている。

真理を見つめ、正しく未来を導く。
創設者の人生に生きる勇気を知る学舎、それが近畿大学です。

世耕 弘一
世耕 弘一(明治26年生~昭和40年没 和歌山県出身)
大正12年、日本大学を卒業後、朝日新聞社に就職。
ドイツ留学を経て、昭和6年に日本大学教授に就任。
翌年、39歳で衆議院議員に初当選(以後、8回当選)。
昭和24年、近畿大学を創設し、初代総長となる。
昭和34年、第二次岸内閣の国務大臣に就任。
昭和38年に藍綬褒章、40年に勲一等瑞宝章を拝受。
没後、従三位に叙せられる。