HISTORY

国民に腹いっぱい食わせたい。
世耕流、命がけの世直しが始まった。

1945年8月15日、玉音放送とともに日本は終戦を迎えた。この頃、国民に配給された食料はイモやマメなどの穀類ばかりで、その栄養価は配給食のみで生活していた東京地裁の判事が餓死するほどだったという。

この出口の見えない食糧難に解決策を提案したのが当時、衆議院議員を経て内務政務次官の要職にあった世耕弘一だった。彼は、戦時中に日本軍が蓄えた米、麦、鉄、石炭などの膨大な物資が、終戦のドサクサに紛れて悪徳商人や一部の官僚の手に渡っている事に目をつけた。これを没収し、市場に流すことでインフレと食糧難を一気に解決できると考えたのである。この妙策は閣議で決定され、早々に「隠退蔵物資等処理委員会」が結成された。世耕弘一は副委員長に就任し、その全権を任されることになった。

清廉潔白な人柄で、飢えた国民に希望を与える。

弘一の摘発ぶりは徹底的で、相手が誰であっても怯むことはなかった。大量の水アメが隠されていると情報が入ればその倉庫を、一流出版社が貴重な紙を隠し持っていると聞けばすかさずその社屋を調査し、あらゆる物資を押収した。

無論、不正者は悪徳官僚と手を組んで物資を隠し通そうと必死だった。倉庫を開けようとする弘一の頬を弾丸がかすめ飛ぶことも、一度や二度ではなかった。まさに命を賭けた世直しだったのである。

弘一の活躍はマスコミに大きく取り上げられ、その度に国民は歓喜したという。敗戦の痛みで心身ともに飢えた国民は、世耕弘一の清廉潔白な人柄に希望を見いだしていた。弘一の世直しは、国民に安心や幸福を届ける活動でもあったのだ。

動乱の町が復興の兆しを見せた頃、弘一は活動の舞台を教育現場に移した。今度は、信義を貫く人材を育てて、日本の未来を立て直そうと考えたのだ。

彼が全霊をかたむけて創設した近畿大学は、それゆえに人格教育の場でもある。「はじめに人ありき」とは、近畿大学に伝わる世耕弘一の大切な教えの一つである。

まず豊かな人間性を育み、そこに英知を注ぎ込む。
創設者の人格に人の道を学ぶ学舎、それが近畿大学です。

世耕 弘一
世耕 弘一(明治26年生~昭和40年没 和歌山県出身)
大正12年、日本大学を卒業後、朝日新聞社に就職。
ドイツ留学を経て、昭和6年に日本大学教授に就任。
翌年、39歳で衆議院議員に初当選(以後、8回当選)。
昭和24年、近畿大学を創設し、初代総長となる。
昭和34年、第二次岸内閣の国務大臣に就任。
昭和38年に藍綬褒章、40年に勲一等瑞宝章を拝受。
没後、従三位に叙せられる。