「IDE現代の高等教育」に本学・岩前副学長の寄稿文が掲載されました

2025.05.14

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建築学部オンライン学士プログラムによる大学教育再構築への挑戦

岩前 篤(近畿大学 副学長, 建築学部教授/建築環境工学)

通信制大学の設置が世間の話題になっている中で、近畿大学建築学部では2025年4月から通信教育課程「オンライン学士プログラム」を設置する。

日本初の建築学部創設

近畿大学は2011年、それまでの理工学部建築学科を母体に、日本初の建築学部を創設した。建築学は工学ならびに芸術に収まらない。約二千年前のローマ時代、既にウィトルウィウスは「建築の書」において、建築家の備えるべき能力として、文章、描画、幾何、光、歴史、哲学、音楽、医学、法律に精通していることをあげている。すなわち、建築学を文理融合と表するのは適切ではなく、そもそも文と理の分解が意味を持たない学問系である。

しかし、当時の大学の建築学科は、工学系か芸術系のいずれかに所属していた。化学・電気・機械の工学系とのコンフリクトは常在し、教授陣は工学系と建築学の折り合いをつけるために、相当の時間と労力を割き続けていた。したがって、後になってみれば建築は学部として独立することがごく自然に考えられるが、当時は画期的な出来事と言われた。その後、およそ二十の大学が後を追うように建築学部を創ってきている。逆にいえば、今もあり続ける工学系、あるいは芸術系の元での建築学科は、建築エンジニアリングか建築デザインのいずれかに重心を偏らせることで、その存在を正当化しているようにみえる。

それはともかく、近畿大学建築学部は、ホーリスティックな建築学の構成を強化し、専門分野の先鋭化、ならびに専門分野間の中間・融合領域の創設を積極的に図ってきた。それも一つの要因となっているのか、前身の理工学部建築学科の頃と比べ、志願者が3〜5倍に、大幅に増加した。結果、所謂、受験偏差値も2ランクほど上昇し、理工学部のどの学科に比べても高い位置を維持し、また、毎年の国交省の発表によれば、一級建築士の合格者数は全国の大学で3〜5位、西日本1位となっている。この日本初の建築学部の創設を既存の大学教育に対する一つ目の挑戦とすれば、今回の通信課程の創設は二つ目の挑戦といえるが、今回は大学教育の対象を飛躍的に拡大する取り組みである。文字通り、国内建築学部の始祖である近畿大学の新たな挑戦と位置付けている。

オンライン遠隔教育の魅力

コロナ禍の始まりは、比較的遠くの国で流行り始めた他人事であったが、短期間で世界全体に伝播しても、インフルエンザの新しい型くらいのイメージであった。それが一気に変わったのは、TVでよく見かけた有名人が数名、時をおかずに亡くなったあたりからだと記憶している。そこから、実質的な戒厳令下となり、外出を抑制せざるを得なくなった。

これが前世紀であったならば、社会的活動のほとんどが停止を余儀なくされていたであろうが、21世紀の第2ディケードでは成熟したインターネットとICTソフトウェアにより、持続可能なことが示され、短期間でオンラインの世界に移行することができた。企業に勤務する立場では、オフィスでの業務がほぼそのまま自宅から可能となり、通勤時間が消失したことによる体力の維持が業務効率の向上に振り向けることも可能となった。

教育機関では、そこまで短時間ではなかったが、試行錯誤による改善が図られ、オンライン授業、あるいは動画配信学習の体制が構築された。オンライン授業をめぐる諸課題と解決については、このIDEのNo.623の特集「経験してみた遠隔授業」に詳しい。近畿大学も多くの学部に共通する共通教養科目を早々に動画化し、オンデマンド配信体制を構築(KICSオンデマンドと名称された)、PCの貸し出しも含めた学生の自宅学習の支援とした。建築学部でも早々にFDを開催し、オンライン授業における学生の習熟度把握や、学生間の交流などの支援ツールの利活用を共有化した。また、専門科目の特に座学系は動画配信の対応も積極的に検討した。結果、全般の学習習熟度は、コロナ禍以前と遜色ないレベルを維持していた。

興味深いデータがKICSオンデマンド授業に残されている。15回にわたる動画をどのタイミングで、どの程度時間をかけて視聴しているか、また、それらと最終成績との相関を見たものである。動画視聴は手元のアプリで、再生速度を選択できる。音声付きでは2倍が最も早い。逆に0.7倍程度に緩和することも可能である。学生の学習記録から、1.5〜2倍程度で視聴する学生群の成績が最も高いことが示された。

予想されたことであるが、我が意を得た思いであった。自らが学生時代、教員によっては極めてゆっくり話す場合があり、短気な当時の私はその速度に馴染めず、授業のテーマには関心がありつつ、授業の内容が頭に入ってこない状態が続いた。オンデマンド動画配信にはその煩わしさがない。オンラインでは聞き漏らした一言が、周りの学生に気軽に聞けないこともあって、致命的な一瞬となり、その時間以降の学習に大きな支障を期することがある。オンデマンドではその場合は、再度聞き直せば良いので、聞き逃すミスもリカバリーできる。

様々な工夫により、コロナ禍で強制されたオンライン遠隔教育手段は、それゆえに熟度向上も早く、教育手段として望ましい位置づけとなった。

ポスト・コロナ時代の疑問からの通信課程の創出

筆者にとって、非常に違和感を抱きつづけているのは、素晴らしい教育手段と位置付けられたオンライン遠隔教育手段がコロナ禍の終焉(正式にはまだであるが)と共にネガティブな評価となり、通学することが当然となってしまっていることである。文部科学省は、できるだけ早く学生をキャンパスに戻し、「正常な」状態の大学教育体制の復活を要望した。単純にコロナ以前の体制に戻すことも簡単ではあるが、せっかく得た新しい教育手段を「良質ではないオルタナティブな手段」と位置付け、利活用を抑制することになるとは思ってもいなかった。なんとかして、せっかくの教育手段をもっと活用したい、という思いが通信課程のアイデアと結びつくのにあまり時間はかからなかった。

すべての大学関係者が頭のどこかに置いている少子化問題は、従来の高校の次のステップの大学にとって必然の課題である。言うまでもなく、ライフスタイル、業務の多様化への対応を行うことで、少ない高校生の集団から少しでも多くを呼び寄せる努力をすることが基本であるが、このやり方には当然の限界がある。リスキリング、リカレントをあらたなオーシャンとすることが望ましいのは論を俟たない。

通信教育課程への期待

近畿大学は、通信教育課程に特別な想いがある。創始者の世耕弘一は建学の精神として、「学びたい者に学ばせる」という言葉を残している。学びたい者が集まり、学びたいことを学ぶ場を供する大学、これが近畿大学の基礎となっている。これの具現化が通信教育課程であり、1957年に通信教育短期大学部商経科を、1960年に法学部法律学科を設置しており、これまで約44,000名の卒業生を世に送り出している。この通信教育の経験がコロナ禍の早々の授業のオンデマンド化に役立っていた。

一方で、第二次安倍内閣が目指した「一億総活躍社会」の実現に向けた取り組みのひとつとして2018年6月に成立した「働き方改革を推進するための関係法律の整備に関する法律」による働き方改革は雇用と就業形態の多様化を生み出し、2022年の岸田内閣による個人のリスキリング支援につながる大きな社会の動きとなった。

高等教育機関としての大学も当然、このリスキリングの要請に応える必要がある。従来の小学校、中学校、高等学校と続くステップの次の段としての大学は、これまで高校を卒業直後の学生が主たる対象であったが、リスキリングとして一般の社会人を新たに学生とすることには、学習拠点の空間の確保という大きな課題がある。また、働きながら勉強するためには、勉強の場が職場と近くなくてはならない。高校を出た学生が大学の近くで下宿するのとは大きな違いがある。

これらを解決するのが、通信教育課程である。学びたいものが、自分の時間の中で学ぶことが可能であり、自ら努力するものが学業を修めることができる。コロナ禍で得たインターネットを通じた新たな教育手段を利活用できる。

個人的に今の日本には他国にはない大きな問題点があると考えている。「同期」である。中学生から同じ学年をユニットとすることが続いている。大学を出て、会社に入っても「同期」の概念は強い。1990年代から、会社の中の縦の関係より、同期という横の関係を重視する傾向が話題になり始め、今も続いている。この同期という概念が、日本人の起業や多様化を阻み、また、再出発、再挑戦の障害になっているように感じている。欧米では、同期という概念はほとんど聞かない。大学は学びたいものを学びに行くところ、会社はその仕事内容に興味があれば、そこで働くという感覚である。したがって大学を卒業したらすぐ、就職するわけでもない。これから、働き方改革の結果として日本もそうなっていくこともあるかもしれないが、期待は薄い。通信教育課程は、同期という画一性を崩すことが可能と思っている。

通信教育課程の最大の問題点は、大学に必須といわれる研究人材の育成に結び付きにくい点である。大学は教育と研究の場だと思われてきている。ゆえに卒業研究は大学教育で最も重要と言われている。しかしながら、近年の大学に通う学生のどれだけが、卒業研究を自分にとって最重要と考えているのであろうか。筆者が卒論に取り組んでいた40数年前でも、同じ学年で研究職に就いているのは数パーセントであり、そればかりか、私の周囲の社会人の知人の中で自分の卒業研究のテーマを正確に覚えている割合も同程度である。博士号に興味を持つ学生の割合はもっと少ない。果たして、いつまでこのような「教育と研究の場」を続けるのであろうか。文科省も既に、大学の教員を、教育を主とする人材と、研究を主とする人材に区別することを提議している。世の大学はこの点をもっと深刻に考える必要があると思う。

おわりに

通信教育課程には、場所と時間の制約、受け身的な学生への配慮など、現状の大学が共通に抱える課題を解決するポテンシャルがある。研究人材の確保を通学課程で対応できれば、通信課程では教育に専念すれば良い。研究に興味のある学生は、いずれ設置されるかもしれない通信制大学院というビジョンもある。危険なのは、大学というものは現状、あるいは現状の延長で良い、これが変われば大学でなくなってしまう、という勝手な思い込みであろう。先日、京都で出会った伝統技能の表具師は、「常に新しいことに挑戦してこそ、伝統が継承される」と言っていた。完全に同意である。

心配されていた近畿大学建築学部の通信教育課程であるが、1月から募集を開始し、定員を大きく超過する可能性が出てきたため、募集を調整し、上期のスクーリングの受講人数を制限することになった。望外の喜びであり、社会の変化をまざまざと見た思いである。次の時代の大学のありようの一つとなるように、これからも教育の内容含め、弛まぬ改善を続ける所存である。温かく注視されたい。

※本記事は、大学教育学会発行「IDE 現代の高等教育」2025年5月号に掲載されたものです。

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出典:IDE 現代の高等教育 No.670・5月号

発行日:2025年5月1日

発行所:IDE 大学協会