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初代総長(世耕弘一)の魂にふれる

実学教育と、人格の陶冶を重視する建学の精神。また医学部を含む理系文系学部を多彩にあわせ持ち、多くの学生が自由闊達に学ぶ「総合大学」「大衆大学」としての気風。近畿大学は、まさに初代総長である世耕弘一が描いた学園イメージそのものです。苦学の末に政治家となり国民のために尽くした世耕弘一が、なぜ近畿大学の創設に情熱を注いだのか・・・その「炎の人生」をたどります。

自らの運命を切り開く、不撓不屈の苦学生

明治26年、和歌山県の熊野古道沿いの寒村に生まれた世耕弘一は、高等小学校卒業までは首席を通す優秀な子供であったが、経済的な理由で中学進学をあきらめ、新宮市内の材木商へ奉公に出た。しかし学問への思いは断ちがたく、東京・神田の英語学校の門を叩く。天与の資質と持ち前の勤勉さで、弘一はその2年後に日本大学進学を果たし、卒業後は朝日新聞社に就職した。だが、学生時代から弘一の才能と志に注目していた日本大学は、新聞記者として活動を始めたばかりであった弘一に、大正12年、ドイツの名門ベルリン大学への留学の機会を与えた。

反骨精神を貫いた、孤高の政治家

留学を終えて帰国した弘一を待っていたのは、不況の嵐が吹き荒れ、失業者があふれる日本社会。大学教員のポストが用意されていたが、「国民を飢えさせてはいけない」と政治家を志し、昭和7年に衆議院議員に初当選した。以後30余年、権力の不正と戦う“反骨の政治家”として、その清廉潔白な人柄で国民のために手腕をふるい続けたのである。

理想の大学づくりに心血を注いだ、情熱の教育者

第二次大戦が終わり、動乱の町が復興を始めた頃、世耕弘一は舞台を教育現場に移した。貧しさから一度は進学を断念した彼は言う、「学問が運命を開いてくれた」と。ゆえに「学びたい者に学ばせたい」と近畿大学の創設に情熱を傾けた。その際に掲げたのが、「医学部から文学部まで全学部を揃えたい。全ての日本人が大学教育を受けられる時代を見据えた先駆けモデルとなる大学をめざす」。

つまり、「総合大学」と「大衆大学」。世耕弘一が目指したこのビジョンは、ほぼ完璧に現実のものとなっている。そして弘一は、「学問・実際一如の有機的教育の徹底を建学の精神とし、特に魂の啓培に力を注ぎ、堅実な思想を持つ有為な人材養成を目的とする」とした。つまり、「実学教育」と「人格の陶冶」を建学の精神としたのである。そして、「教育の目的は、人に愛される人、信頼される人、尊敬される人を育成することにある」とした。

弘一が人生をかけて思い描いた理想の教育、それが近畿大学であり、現在もその精神が受け継がれているのである。

長編大河漫画『山は動かず』世耕弘一伝

今日の近畿大学はいかにしてなったのか。初代総長・世耕弘一の激動の人生を劇画化し、その熱い想いを伝えています。

建学史料室広報誌 A Way of Life -Seko Koichi-

建学史料室では、史料室広報として「A Way of Life-Seko Koichi-」を発行しています。創設者世耕弘一の生前の各方面にわたる活躍とその足跡をたどる関係資料を中心に、史料室で探索、収集した情報や史資料を広く広報しています。

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